関連カテゴリ: PYEONGCHANG 2018, アルペンスキー, 取材者の視点 — 公開: 2018年3月14日 at 6:54 AM — 更新: 2022年2月4日 at 12:41 AM

アダム・ホール、スーパーコンビで銅メダル!

知り・知らせるポイントを100文字で

投稿はこちら(メールソフトが開きます)

R0001530

「ちょっと待って。妻が待っているんだ!」

彼はインタビューしようとする私に笑顔で一声かけた後、一目散にフェンスを乗り越え、涙を堪え駆け寄る妻の両肩を力強く抱きしめた。周囲の目も憚らずキスをしながら8年ぶりのメダルを手にした喜びを噛み締めあった。

彼の名前はアダム・ホール、30歳、ニュージランド出身。

アルペンスキー・スーパーコンビ立位で、13日、銅メダルを獲得した。2010年バンクーバー大会スラローム立位での金メダル以来の勝利の瞬間だった。

世界中のパラスキーヤー達にとってアダムは常に敬意を払われる存在だ。

障害のクラスはLW1。最も重いハンデを示すこのクラスで彼は常に世界トップクラスの成績を収めてきた。両足に装具を着用し滑走する彼の太ももは目をみはるほど発達している。膝から下の不自由さをいかにカバーしてきたのかを物語っている。

パラリンピックは2006年、19歳でのトリノが初舞台。ダウンヒル立位で41位というのが最高位だったが、2009年の平昌世界大会ではスラロームで2位に躍進。2010年のパラリンピック・バンクーバー大会では金メダル。2014年のソチでは4位に終わりメダルには一歩届かなかったが、今回雪辱を晴らした。

「最高の大会になったよ。忘れられない瞬間になった」

ニュージーランドの国旗をマントのように纏い、彼がインタビューに答えてくれた。

アダムは子供の頃に二分脊椎症と診断された。赤ちゃんの脊髄の形成に異常が発生することによって生じる先天性の障害で、特に下肢の麻痺や変形による運動機能障害を引き起こす難病だ。アダムも子供の頃より何度も手術を受けてきたという。

そんな彼にスキーを進めたのは、彼の母親の友人だ。アダムと同じく二分脊椎症のハンデを負っていた。この時、アダムは6歳。はじめて自分の力で板をコントロールした。しかし、なかなか思うように上達はせず、3年後、友人の進めでスノーボードへ転向した。

「圧倒的なスピード感が僕を自由にしてくれた。これを待ち望んでいたんだ、そう感じることができて嬉しかった」

技術が上達していくに連れ、アダムはパラリンピック出場への夢を膨らませるが、当時はまだスノーボードは競技として採用されておらず、転向を決意。2004年、17歳で彼は再びスキーに戻ってくる。

バンクーバーでの金メダル以降も、怪我や内臓の不調などに悩まされてきたアダム。しかし決して戦線を離脱することはなかった。平昌でのゴールシーンは歓喜に満ちていた。

R0001535

「アダム、あなたにとってパラリンピックとはどんな存在か?」

そうシンプルに聞いてみた。答えが印象に強く残った。

「パラリンピックとは「チャンス」だ。自分が自分で道を切り開くための挑戦を与えてくれる。どんな困難が覆いかぶさってきても、4年という期間があればそれを乗り越えられると思わせてくれる。パラリンピックがあるからこそ、こうして成長することができた。まさにチャンスだ」

選手としてのアダムの挑戦はまだまだ続く。彼はなぜ奮闘を続けるのか。彼自身がホームページにこう書いている。

「ニュージーランドでの障害者スポーツへの理解はまだまだ低い。自ら成績を上げて注目を集めることで、人々にその素晴らしさを伝えたい」

この記事にコメントする

記事の訂正はこちら(メールソフトが開きます)