アジアでのパラスポーツを観戦しよう!

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夕方から、トーチリレーの聖火を掲げたトーチセレモニーが市街の会場で行なわれた。アートカルチャーセンター

夕方から、トーチリレーの聖火を掲げたトーチセレモニーが市街の会場で行なわれた。アートカルチャーセンター

10月17日、夕方。市庁舎に近いアートカルチャーセンターでは、トーチセレモニーが行なわれていた。来ていたのは、地元の人々で約700名ほど。障がいのある参加者もいた。韓国語のみのイベントで、残念ながら、海外からの参加者はほとんどいなかったようだ。視覚障害のシンガーが歌を披露し、多くの人が夜遅くまでステージを楽しんでいた。

パラフォトは、2000年シドニーパラリンピックで初めて車いすバスケットと陸上を取材した。当時のパラフォト取材チームが撮影したビデオには、必ずといっていいほど自分たちの応援の叫び声が混じっていた。シュートシーンでプレス席からきゃあきゃあという黄色い声がしたら、今ならつまみ出されることだろう。そもそもスチールカメラマンのパスで、ビデオが持ち込めない。ファンは観客席にいるものだ。しかし、フォトエリアから振り返る観客席にも人はまばらだった。
もう10年以上たち、情報がすぐに伝わる時代、アジアパラリンピックもパラリンピックのエリート競技の影響をうけて進化してきた。会場には観客が3分の2以上はいる。当たり前だが、応援やもちろん取材のマナーもきちんとしている。

セレモニーは夕方から、韓国語のみで行なわれ、地元の人々が集まっていた。

セレモニーは夕方から、韓国語のみで行なわれ、地元の人々が集まっていた。

2002年に冬季ソルトレーク大会の取材を終え、その年から夏冬のジャパンパラリンピック、スペシャルオリンピックス、INAS-FID知的障害者サッカーワールドカップなどさまざまなパラスポーツを取材した。障がい者のスポーツといっても、障がいも種目もさまざまなバリエーションに満ちていた。なのに、情報はかなり最近まで「障がい者の社会参加」「リハビリの延長」というステレオタイプな見方を裏付けるような伝え方でしかなかった。それが徐々に変わり、むしろさまざまな障がいで、スタイルで楽しめるというスポーツそのものの広がりや意義を感じた。それは、人間そのもののへの可能性の広がりで、どう伝えたらいいか、取り組むことにも興味が湧いてきた。今のアジアパラは、大会も情報もエリートスポーツ中心になった。

フェスピック・釜山大会で・・
日本やアジアの障がい者の競技スポーツは、1970年に大分の中村裕博士が提唱して、貧しい地域や国々でも障がいのある人が楽しくスポーツをすることを目標にはじまった「フェスピック(極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会を意味する英語名称、Far East and South Pacific Games for the Disabled の頭文字)」。
そのフェスピックは、2006年・マレーシア大会を最後に、現在の「アジアパラ競技大会」となり、事務局も大分からマレーシアに移った。

アジアでも、日本でも最近はロンドンパラリンピックが話題になって、パラスポーツもエリートスポーツのイメージが強くなってきていると思う。
フェスピックには、もともと「3分の1」というルールがあって、それは、アジアの現状にあわせていく紳士協定だった。トップの選手だけではなく、初出場の選手を優遇して出場させていた。フェスピックには、ヨーロッパやアメリカで始まった障がい者のエリートスポーツというイメージはなかった。代わりに、みたこともないような旧式の車いすレーサーや、木製のクラッチや生活用の義足で走る選手もいた。車いすバスケの車いすも、日本人選手がクルクルとあたり前に使っているようなものばかりではなく、病院や日常生活で使用する車いすで参加しているような国もまだまだあった。

2003年にフェスピック釜山大会(韓国)を取材した。空港からタクシーで予約した安いホテルにチェックイン。陸上競技を中心に取材。陸上会場に併設された小さなメディアセンターへの毎日の行き来はタクシーだった。私たちの取材チームには車いすの記者が1名いたが、メディアセンターは階段の下にあり、エレベーターがなかった。マレーシアのメディアにも車いすの記者がいた。選手だけでなくメディアにだって、障がいのある人がいるのは何ら不思議のことはない。障がいのある取材者がプレスルームを出入りするのに4人掛かりで担いで階段を上ったり降りたりしなければならなかった。そんなとき、韓国の人々はイヤな顔はせず、むしろ我先にと階段に駆けつけてサポートしていた。釜山大会での韓国人の印象は、「親切で、意地っ張り」だ。

パラスポーツをリードする中国
世界で、レクリエーションと競技スポーツがはっきりわかれたのは、2008年北京パラリンピックだと感じる。しかし、同じアジアで、障がい者のスポーツは多くの場合普及、その工夫が課題となっていることを忘れてはならないと思う。また、知的障害の競技は長野パラリンピックから開催され、パラリンピックでは一部の競技のみ開催されているが、アジアパラへは多くの種目で知的障害の選手が活躍している。ちなみに、中国は、今年からINAS-FID(国際知的障害者スポーツ連盟)に加盟し、知的障害のスポーツにも取り組んで行くという。

これまでいろいろ取材してみて、この仁川にも来て、まだ1日と少しだが、2003年に取材した「フェスピック(アジアパラの前身)釜山大会(韓国)」は、その後のパラスポーツのアイデンティティを考える今の取材につながっているとあらためて感じている。2020年にむけ、アジアの一員として日本人はどんなパラリンピックを思い描けばいいだろうか。