開会式を1時間後に控えたスタジアムには、色とりどりのバナーが掲げられ、真新しい舞台が設えられている。広いスタジアムを歩き回って写真を撮ったり、観客にインタビューをしたりしながら、私はどこか、居心地の悪い思いを拭い去れずにいた。
私事になるが、私はこの取材に来る10日前まで、南太平洋のある国で、障害児教育にかかわる仕事をしていた。この国には養護学校がなく、特に障害の重い子どもは学校に行くことが出来ない。どの子どもたちも、それぞれの家庭の中で愛されて育っていたが、教育や社会参加の機会を奪われていることも事実である。現金収入が乏しく、もののない国では、障害者福祉は二の次三の次だ。障害を持つ人たちの人口調査すら進んでいない状態なのだから、状況が変わるには、非常に時間がかかるだろう。障害者スポーツやトレーニングなんて、夢のまた夢。雪など降らない南の島だから、冬のパラリンピックに出られないという以前の問題である。
スタジアムを見渡すと、すべての客席に、観客に配られるグッズが置かれている。日の傾きかけた会場を照らすのに、熱いくらいの照明が輝いている。このセレモニーを開催するのに、どれほどの金額とモノが動いているのか。私には想像すら出来ない。
式の間、スピーチには電光掲示板にイタリア手話と英語の字幕が入る。しかし、聴覚障害者は、国際パラリンピック委員会から既に離脱し、デフリンピックという国際スポーツ大会を独自に行なっているので、パラリンピックの選手の中に、基本的に聴覚障害者は含まれない。この開会式に、聞こえない人は集っているのか? もしそうではないなら、誰のための手話通訳なのか? 来賓などに、地元のろう者団体などが招かれているのかもしれないが、テレビなどを見ているイタリアのろう者・難聴者には、英語の字幕はあまり助けにはならないだろう。
パラリンピックは、障害を持つ人にかかわるイベントとしては注目度がきわめて高い。私自身も含め、日本からも世界中からも数多くのメディアが集まっている。だからこそ、これが障害を持つ人たちのイベントのすべてのように取り上げるのは、あやういものがある。
この場にいないのは誰なのか。見えなくされ、置き去られているものは何なのか。南の島の障害を持つ子どもたち、一緒に仕事をした現地の人たち、聞こえない友人たちの顔が浮かんできて、涙が出てきた。楽しくおめでたい場のはずなのに、胸がしめつけられて、私はなぜここに来たのか分からなくなった。
やり場のない思いを持て余しているうちに、開会式は進んでいく。そうするうちに、両腕のないダンサー、シモーネ・アッツォーニが、軽やかに舞いながら、舞台の中央へと踊り出てきた。モニターに映るクローズアップ、そして遠い舞台上の彼女のパフォーマンスを交互に見ているうちに、目が離せなくなった。彼女の微妙な体の動き、表情、それはまさしくプロの表現者のものだったからだ。踊るその姿は「腕がないのにすごい」「障害を克服」と、分かりやすく片付けられるものではなく、腕がないことをそのまま受け止めて、からだひとつで、磨かれたパフォーマンスへと昇華していた。
ダンスとスポーツは異なるものだが、どちらも障害の有無にかかわらず、人が自らを注ぐ行為である。障害を持つ人が己を表現するのに、このような洗練されたかたちがあるのだと思い知らされた。
聖火リレーのフィナーレを飾るのは、舞台に上がった各国選手団の旗手たちだった。彼らはそれぞれのやり方で、聖火を手にし、手渡していく。ひと回りして聖火を観客席に見せる者、掌のない腕で聖火を受け取る者、介助者に手を添えられて聖火を渡す者・・。派手な演出は何もない。そしてどの選手も、聖火を受け取り、次の選手に手渡すとき、やさしい笑顔を浮かべていた。この場の主役は、ほかでもない選手自身だった。
その姿を見て、では、彼らはなぜ今ここにいるのかと考えた。それぞれの環境で、技術を磨いてきた選手たちがひとつの場に集い、競技と時間を共にすることは、それぞれの身にも心にも、消しがたいインパクトを残すだろう。この場があるからこそ、輝く選手たちがいる。次のステップにつながる道を開くことが出来る。
開会式が始まったときは、悲しく、腹立たしかった。でも、競技と生活を通じて互いを認め合う場は、それでもやはり、意味のあるものだと思った。
この開会式のスローガンは、「すべての限界、すべての障壁を打ち崩す」だと言う。障害を持つ人々をめぐる「障壁」はさまざまだ。周囲にすっかり溶け込んで、そう簡単には見えなくなっている障壁もあれば、本人の努力だけではなく、社会の意識が変わることで崩れていく障壁もある。「すべての限界、すべての障壁」が、そのようなものも意図しているのかどうかは、正直に言って分からない。けれども、障害を持つ人々をとりまく経済状況、地域の格差がいつかは埋まり、誰もが自分の生きたいように生きていけるようになってほしい。打ち崩すべき障壁とはそのためのものも含まれるのだと、フィナーレに近づいた開会式を見て考えていた。
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| 出番を待つダンサーたち |
(真下弥生)