チェアスキー開発の歴史

■誕生から長野モデル以前

チェアスキーとは椅子のスキー、つまり座位姿勢によるスキーを指す。国際的には「Sit Ski」と呼ばれ、「チェアスキー」という言葉は開発者による造語である。対象となるのは両下肢障害者、また上肢まで障害が及ぶような四肢麻痺の障害者も含まれる。競技者は一本のスキーに備え付けられた椅子に座り、両手に「アウトリガー」という小さい板のついたストックでバランスをとりながら滑る。

開発は1976年、「脊髄損傷者が座ったままでスキーを滑れるようにするにはどうするか」という点から始まった。試行錯誤の末、1980年、チェアスキー1型機がうまれる。当時のモデルは脊髄損傷者を対象にしているという意識が強く、障害を機器で補助しなければならないという観念が先行していた。そのため、一定レベルのスキーを可能にはしたが、滑走可能な斜面が限られたり小回りがきかないなどの制約が生じ、およそスポーツとは呼べない代物だった。

1型機の反省を踏まえ、根本的な改良を施したのが2型機である。「スポーツをする主体はあくまでプレーする人間にある」という基本に立ちかえり、制動用のハンドブレーキなど過剰な装備を一切取り除いた。競技者の運動感覚やバランス感覚を第一義に考えたのである。滑走原理は通常のスキーとまったく同じで、回転や制動、停止など、すべての面でチェアスキーヤーのエッジコントロールに委ねる構造となった。また、この2型機からアウトリガーが採用され、シートとスキーの連結部分にショックアブソーバーも取り入れられた。1984〜87年のモデルである。

1987〜89年に登場した3型機は、よりハードな滑りに対応できるように、ショックアブソーバーの組み込み位置や組み込み方法が変更された。また自立したスキーコントロールに加え、関連するほかの動作、すなわちリフトの乗降や転倒からの復帰などを可能にした。ただ、ゲレンデを登る際にはリフトを止めて乗らなければならず、人の手助けも必要とするなどの問題があり、スキー場によっては使用を断られることも多かったという。

この点をクリアし、さらなるスキー技術の向上に合わせてより高速で高度な滑走に対応できるよう開発されたのが、競技用チェアスキー(4型機)である。それまでは滑走時に後方への荷重となっていたが、サスペンション機構に改良を加えることによってこれを修正した。またショックアブソーバーの設定により、滑走種目別の特性に合わせられるようになった。さらにリフト搭乗の問題も解決し、十分な練習量を確保した。これらの要素を満たしたことで、求められていた競技会への積極的な参加を可能にしたのである。1990年に登場したこのモデルは、長野パラリンピックの前身となった。


■長野モデル

1994年に行なわれたリレハンメル・パラリンピックでは、4型機完成機を使用して好成績を収めた。だが、この頃から諸外国のアルペン用シットスキーの性能が向上を見せ始める。事実、1996年の世界選手権・レッヒ(オーストリア)大会では、メダルこそ獲得したものの不本意な結果に終わっている。2年後の長野パラリンピックに向けて、滑走技術の向上やトレーニングの強化とともに、チェアスキーの本格的な研究開発が迫られた。

もっとも注目したのは、ショックアブソーバーおよびサスペンション機構だった。車でいう「足まわり」である。雪面からの衝撃を吸収し、滑走中のスキーヤーの姿勢を制御する重要な役割を果たすこの部分について、ドイツモデルと徹底的に比較し研究した。長野大会の約半年前から選手とともに試乗と改良を繰り返し、大会開催2週間前まで最終調整が行なわれた。その結果、選手は十分な練習ができなかったにもかかわらず金メダルを獲得、日本の身体障害者スキーの歴史が始まって以来初の快挙を成し遂げたのである。


■ソルトレークモデル

長野パラリンピックでは、アルペン競技シットスキー部門において金メダル2、銀メダル2、銅メダル1という成功を収めた。だが、開発の着手が本番の2年前だったため開発期間が短く、選手が用具に慣れるための時間を考慮して、以前のモデルからの大幅な設計変更は行なわれなかった。

大会後、さらなるサスペンション機構の強化とチェアスキーの高性能化を目指したのが「S2000モデル」である。これに加え、ソルトレーク・パラリンピックに向けて開発されたのがレッグカウルだった。足を覆うように取り付けるこの道具によって、スピードの増加とともに増す空気抵抗の低減を実現させた。実走試験では、レッグカウルによって空気抵抗を6〜24%減らすことができ、速度の向上効果が得られた。
 熟成した「足まわり」とスピードの追求は、ソルトレークモデル開発におけるコンセプトを物語る。それは、「人がコントロールする道具であるべき」という考え方に基づいたものだった。


■追記;チェアスキー開発の苦難

「長野パラリンピックの2,3年前までは大変でした。開発費が出なかったんですから」
吐き捨てるように、日本チェアスキー協会会長の伊佐幸弘は言った。開発費を捻出するためには企業に協力を仰ぐしかなかったという。
「私たちは高度な技術を持っているんです。でもお金が付いてこない。それでは開発もままなりません。日本の障害者スポーツにおける問題はここなんですよ」
たとえばアメリカでは、オリンピックとパラリンピックの選手が一緒になって強化合宿を行なう。いまだに日本では見られない光景である。また、パラリンピック日本代表選手の資金について、A〜Cのランク付けがある。ランクAは入賞が確実とされる選手で、すべての費用が免除される。ランクBは入賞の可能性が高い選手で、宿泊費のみ自己負担といった措置が取られ、入賞が危ぶまれるランクCの選手はすべての費用を負担しなければならない。
「そんな状況で『選手が育たない』と批判されても…」と、会長の表情は曇る。日本における障害者スポーツの弱点の一端が垣間見えた。

 

Text/Daigo Kumamoto

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