From: "Shigeru Namiki"
To: "'Nobue Sasaki'" <sasaki@paraphoto.org>
Subject: RE: 越智さん〜現実のキリトリ〜
Date: Thu, 14 Mar 2002 12:03:49 +0900


並木です

実は、学生時代はドキュメンタリーをやってましたし、美学は哲学
と並んでそれ以前からの付き合いなのでこういう話には興味があ
ります。
ドキュメンタリーでの話をすると、実は非常に曖昧なスタンスの上
に立っているということが分かります。映像がなければ表現できな
いのですから、絵が必用であることは言うに及ばず、自分が本当
は語りたい主張を、どっかの先生とかそれを代弁してくれる人を捜
してきて、わざわざカメラの前で語ってもらわなければ作品になら
ないのです。これが、司馬遼太郎や田原総一郎なんかだったら
「俺はこう思うが」で済んでしまうものを。

そこが表現手段としてはインパクトのある映像の最大の欠点です。
本当の主張をしようと思うと、ビジュアルなものは間接的表現(他者
があってのもの)なので、ダイレクトではないですし、曖昧になりや
すいのです。やはり限界があると思います。僕が映像を生業にしな
かった理由の一つはこれです(デザインを生業にしなかったのにも
それなりの理由があります)。

今ブレーク中の鈴木宗男でも、一瞬の醜悪な表情を狙って切り取
れば、悪徳政治家のイメージを増長できるでしょうし、逆に一瞬の
穏和な表情を切り取れば全く逆のイメージ戦略もできるわけです。
これらはどちらも現実であり、鈴木宗男自身を伝えることに変わり
はないわけです。「見せる」、ということと「伝える」を論議するのは
それ程大変なことだと思うのです。

それは「卑猥か芸術か」というよくある話にも通じるものだと思いま
す。もともと、生物の雄としての劣情が裸婦像を成り立たせている
のであって(猿の裸を見てもいいとは思いませんし)、人間の遺伝
子に組み込まれた価値観に沿って発現している欲求に過ぎません。
何か哲学的なことを語りたければ裸婦(ヌード)でなくてもいいので
す。それは卑猥さの出し方次第の問題であって、芸術と言われる
ものにも変わらず卑猥さは脈々と流れているわけです(古今、芸術
家がモデルと関係を持つのは当りまえのことのようです)。
あの写真家のヘムルート・ニュートンは、事が済んだ後、自分のも
のにした女性(女優)を撮影するというのをワークスタイルにしてい
ました。

何を切り取るかは、越智さんが仰っているように、自分の哲学に共鳴
した部分を、自分の言葉で切り取ることであると思います。だから
それは「伝見せる」ということなのかな。結局、その人の考え方(スト
イックなのが好みです)が作品の全てなのだというのが、僕の表現
に関する意見です。その上で、人に共感してもらう「伝える」という部
分と、「見せる」という部分のバランス感覚が必用です。

> それから、「見せる」、ということと「伝える」ということは
> 同じ延長線状で、どこまで演出がゆるされるか?
> という点で、レベルに違いがあると思います。
> どんなドキュメンタリも切り取られていますから、
> 誰かがそれは切り取っているのだけれども、
> どこまでをドキュメンタリとして良いか、あるいは、
> 現実と言って良いか? 目的は報道か娯楽か?
> という意味を伝える側がキチンとわかって伝えていかなければ
> ならないだろうと思います。
>
> そして、伝える側というのは、受ける側でもある。
> いつもその間をトランスレートできる状態でいることが大事かな。
>
> その時、視点をシッカリもって、行き来してる間に見失わないよう
> に、シッカリ竿をさせる土台を持っていることだと思うんです。

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