関連カテゴリ: Gettyimages, ボッチャ, 東京, 東京パラムーブメント — 公開: 2021年9月5日 at 7:33 PM — 更新: 2021年9月19日 at 12:33 PM

重度障害者による競技 ボッチャBC3ペア 銀メダル獲得

知り・知らせるポイントを100文字で

投稿はこちら(メールソフトが開きます)

 ボッチャBC3ペア決勝は9月4日に行われ、日本代表BC3ペア(高橋和樹、河本圭亮、田中恵子)は韓国に第1エンド3点を奪われたが、最終エンドに同点に追いつきタイブレークへ持ち込む。最終的には敗れてしまったものの日本は銀メダルを獲得。個人戦には高橋が前回大会に出場していたが、ペアとしては初出場での銀メダル獲得となった。

 翌日の会見で高橋は「リオパラリンピックが終わってから、この5年間、BC3クラスを多くの人に知ってもらうため、BC3クラスの知名度をあげるため、そのために東京パラリンピックで結果を残すことを一番に考えて練習に励んできました。今回メダルを獲得できたことでBC3クラスにこれから注目してもらいたいと思っていますしその機会をつくることができました」と語った。

Embed from Getty Images

2大会連続出場の高橋和樹

 決勝はNHKでも放送されたのでボッチャBC3の面白さに目覚めた方も少なくないだろう。ランプの高低、ハードとソフトなボールを使い分け、局面を大きく変えるようなビッグプレーも多い。しかもその競技者はパラリンピック出場者で最重度の障害を持つ選手たちだ。筆者自身も電動車椅子サッカー選手からボッチャに転身し日本選手権で準優勝するにまで至った有田正行に導かれた形でBC3に興味を持ち、今大会は、ブラインドサッカーとボッチャを取材対象と見定めていた。しかし日程がかなり重なっており、BC3の取材は十分にはできず決勝も会場には行けなかった。ブラインドサッカーの決勝と重なっていたため、泣く泣く録画した映像で観るしかなかった。ただ幸いなことに、準決勝進出を決めたブラジルとの一戦、そしてギリシャとの対戦となった準決勝は会場で直に接することができた。

Embed from Getty Images

ボールをリリースする河本圭亮

 9月3日に行われた予選リーグの最終戦ブラジル戦も痺れる試合だった。2-3とリードされ、むかえた最終エンド。河本が最後の6投目でタイブレークに持ち込み、最後はブラジルのミスもあり余裕をもって勝利を手繰り寄せた。日本は3球を残していたが、河本は「最後は自分が決めて勝つつもり」だったという。
 試合後高橋は「BC3クラスはどこが勝ってもおかしくない。何が勝ちにつながるかというと、ペアのなかでのコミュニケーションだったり勝つという強い気持ちだったり」だと思ったという。「コロナ禍で充分に練習ができないなかで、リモートでボッチャ以外のこともやりとりしていたことが試合のなかでのコミュニケーションにもつながっている」と感じた。

Embed from Getty Images

田中恵子はムードメーカーも担っている

 3人のなかでムードメーカーを担っているのは田中恵子。村上監督も「田中さんの活躍はすごい。ムード作り、プレー以外でも貢献している」と評価している。準決勝は、それまでの日本の勝ちパターン、ムードメーカーの田中が第1エンドに出場し点を取って盛り上げいい流れで高橋につないで勝つという試合となった。準決勝はランキング1位のギリシャとの対戦。第1エンドは田中の得意なロング9mで仕掛けて、3点を先取。その流れを受け、高橋や河本が第3第4エンドでもピタリと寄せるスーパーショットを繰り出し5-1と勝利、決勝進出を果たした。
 ペア戦はコーチの存在も大きいという。その時その時のボールの位置や選手たちの動きをトータル的に見て指示を出す。この試合でも森コーチが「相手がロングにあっていないから次もロングでいこう」と声をかけたのだという。

 そして決勝。敗れはしたものの日本代表BC3ペアは歴史的な銀メダルを獲得した。

Embed from Getty Images

銀メダルを手にした選手、アシスタントたち

 一夜明けた会見では、悔しさも滲ませていた。
「メダルはもらうことができましたけど目指していたところはもう一段上のステージだったので、その悔しさが次に向けてのバネ」と語ったのは河本。高橋のアシスタント峠田も「一番の感想は、やはり悔しい。金メダルをとれる確信が私たちのなかにはあったので悔しさが一番ありました」と語った。また峠田は質問者が自らのことを選手と呼んでくれたことに感謝の意を述べ「パラリンピックは障害を持たなくても出れるしメダルももらえる。選手にもなれる」と思いを伝えた。
 田中は「パラリンピックでは、障害が重くても“出来る”」という証明ができたという。
 高橋は「障害を持ってから周りからかわいそうとか大変そうだというイメージを持たれた」「それにずっと違和感があり、障害があっても車いすで生活していても、自分の人生を輝かせて生きていきたいとずっと考えて生きてきました。東京パラリンピックが決まり、自分の人生を輝かせるために東京パラリンピックに出場しようと、その中での7年間」だったという。

この記事にコメントする

記事の訂正はこちら(メールソフトが開きます)