関連カテゴリ: Tokyo 2020, コラム, ブラインドスポーツ, 取材者の視点, 地域, 夏季競技, 東京パラムーブメント, 競技の前後左右, 陸上 — 公開: 2020年3月16日 at 2:18 PM — 更新: 2020年4月26日 at 3:31 PM

視覚障害やり投げ若生裕太の挑戦。仲間とめざす、パラリンピックの切符のゆくえは・・

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今年2月、愛用のやりを持って、ホームの日本大学のグラウンドに立つ若生裕太。筆者撮影
今年2月、愛用のやりを持って、ホームの日本大学のグラウンドに立つ若生裕太。筆者撮影

静かに活躍の時を待つアスリートがいる。

パラ陸上男子F12(視覚障害)クラス、やり投げの若生裕太(わこうゆうた)。
競技歴は2年未満だが、日本記録を保持する。世界ランキングも5位の有望株だ。

体育教師を目指して勉学に励んでいた大学2年生の秋、レーベル遺伝性視神経症を発症した。両目の中心が見えにくくなり、細かい文字は読めなくなった。
黒板が見えずパソコン操作も難しくなったが、同級生のサポートを受けて単位を取った。

子供の頃は空手に親しみ、高校時代、甲子園出場経験がある強豪校で野球部の主将を務めた若生は、周りからの勧めで様々なパラスポーツと出会う。
「野球の動作を活かせて、東京パラリンピックに最も近い競技を考えた結果が、やり投げでした。もう一度、アスリートとして競技に打ち込みたい」

2年前から専念し、約1年後の5月には日本記録を更新した。それでも、目標とする東京パラリンピックへの道のりは容易ではない。

若生選手がやりを片手に持って、笑っている画像
やり投げで東京パラリンピックを目指す、若生裕太。筆者撮影

8cm差で逃した最初のチャンス

昨年7月、岐阜県で行われたジャパンパラ陸上競技大会に出場。
この大会で派遣指定記録の57m02cmを突破できれば、11月に行われる2年に一度の世界選手権に出場できる。世界選手権は、4位以内に入れば東京パラリンピックの内定が得られる重要な大会だった。世界ランキングを上げるためには、当時、海外の大会に参加するしかなかったのだ。

1投目で記録を出し「これはいける」と思った直後、大雨が降った。雨はすぐに上がったものの地面が滑り、2投目以降、本来の投てきができなかった。普段から「晴れ男」と定評のある若生を、この時だけは天が見放した。
結果は56m94cm。自身の日本記録を2m以上更新したが、派遣指定記録には8cm足りなかった。

「世界の舞台はまだ僕には早いということですね。この8cmを笑い話にできるように、帰って練習します」

日が沈みかけた陸上競技場の画像
日が沈みかけた陸上競技場 筆者撮影

同級生の父の助言をもとに、支援を募る

若生は、この3月、ドバイで行われる2つの大会への出場を考えていた。それには60万円(1人約30万円、サポート1名を含む合計2名分)の渡航費を準備しなければならなかった。

若生にきっかけをくれたのは、同級生の父、小林元郎(こばやしもとお)さんだった。
昨年8月に小林さんと食事へ行った際、「仲間の力を借りなさい。そこで応援してもらえなければ、東京パラリンピックにも出る資格がないということだよ」と助言をもらった。
その結果、高校野球部の同級生4人が集まって激励会を企画し、寄付を募る準備を始めた。

若生選手と小林もとおさんの笑顔のツーショット画像
きっかけとなった小林さんとのランチにて。 筆者撮影

仲間の応援を背に、いざ

昨年12月、東京で開いた激励会には50人以上が参加。また200人を超える仲間から、ドバイ遠征費100万円が集まった。こうして、若生は遠征費をすべて寄付でまかなうことができた。

若生選手が激励会で、スライドを使ってスピーチしている画像
激励会で、これまでの経緯と決意を伝える若生。 筆者撮影

東京パラリンピックでは、若生のクラスF12がなく、一つ障害の軽いF13とともに(コンバインドで)競技が行われる。目標はF13の世界ランキング4位相当の60mに定めていた。
順調にトレーニングを積み、2月中旬、ドバイでの本番を想定した練習ではベスト記録が出た。出発の1週間前、若生の表情は自信に満ちていた。

「調子はめちゃくちゃ上がっています。暑い場所は大好き。一投目で決めます」

若生選手が陸上競技場を堂々と笑顔で歩いている画像
冬のトレーニングを経て、体つきも変わった。 筆者撮影

ドバイの大会は中止に。借りは東京で返す

迎えた大会直前。若生の好調とは裏腹に、全世界で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が猛威を奮い始めていた。
若生が参加を予定していた2つの大会のうち、まず前半の大会が延期となった。後半の大会に合わせて渡航日を遅らせることもできたが、渡航禁止になるリスクを考え、予定通り出発した。
ドバイに到着した直後、後半の大会が中止になることを知った。この瞬間、3月中にはもう該当する試合がないため、4月1日までの東京パラリンピック内定の可能性は消えた。

「中止と聞いた時には、頭が真っ白になりました。色々な人の思いを背負ってここまで来たことがよぎりました。去年出られなかった世界選手権もドバイだった。ドバイには縁がないのかも」

 若生は、珍しく弱音を吐いた。

支援してくれた人たちに中止を報告すると、応援するメッセージが届き、はげまされた。現地では、大会で使用する予定だった陸上競技場で練習ができた。

若生選手がドバイの陸上競技場でやりを投げた直後を後ろから撮影した画像
ドバイの陸上競技場で投擲練習。 筆者撮影

当初の機会は逃したが、これで東京パラリンピックに出場できなくなったわけではない。6月7日までの記録による選考が残っている。
次の機会に内定を確実にするため、5月の新国立競技場で開催されるジャパンパラ陸上を始め、若生は複数の試合に出場予定だ。
「切り替えてやるしかない。これからの僕の頑張りで、今回の(困難な状況の)経験が良かったと言えるようにしなければならないと思っています。最後には必ず笑ってみせます。期待していてください!」

ドバイから帰国した若生は、前向きな姿勢を見せてくれた。

東京パラリンピックの試合は、9月3日。その想いを「やり」に込めて、最高の笑顔を届けてほしい。

(編集・校正 佐々木延江、望月芳子)

<参考>
仲間と掴むパラリンピックの切符。視覚障害やり投げ若生裕太の挑戦。(視覚障害者と関わる人のメディア「Spotlite」の記事)
元球児のやり投げ奮闘記 ~パラリンピックへの道~(視覚障害者と関わる人のメディア「Spotlite」の記事)

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