公開: 2025年11月23日 at 18時27分 — 更新: 2025年11月25日 at 16時06分

【陸上】デフ陸上のパイオニア高田裕士が涙。無念の失格も、子どもたちに「自分の力を信じて」

知り・知らせるポイントを100文字で

東京2025デフリンピックの陸上110mハードル予選に出場した高田裕士。日本で初めてプロのデフアスリートとなった彼が、大会を通して聞こえない・聞こえにくい子どもたちへ伝えたいことを語った。

東京2025デフリンピックも佳境に入ってきた。日本はここまで金メダル5個、銀メダル4個、銅メダル14個を獲得している。華やかなメダル獲得の瞬間はもちろん、パラフォトは全てのパラアスリート、デフアスリートを応援するファンのためのメディアとして、さまざまな勝負のドラマがあることもまた、伝えたい。

2010年にデフリンピック日本代表として初めてプロ選手となった高田裕士。デフ陸上のパイオニア的存在で、競技の普及やデフリンピックの認知拡大にも大きく貢献した。写真・秋冨哲生

19日、駒沢オリンピック公園 陸上競技場で行われた110mハードル予選に出場した高田裕士(トレンドマイクロ)は、デフリンピック5大会連続出場で活躍が期待されたが、フライングにより失格となった。

スタートが命のトラック種目

100分の1秒を争うトラック種目ではスタートが命だ。デフリンピックでは、号砲が聞こえない・聞こえにくい選手のためにスタート音を光の合図で知らせる「スタートランプ」が使用されている。ピストルと連動し、赤色で「オン・ユア・マークス(位置について)」、黄色で「セット(よーい)」、緑色で「号砲(スタート)」と、色の変化によって選手に合図を知らせる。

選手の視線の先に配置された「スタートランプ」。写真・秋冨哲生

寒空の下、観客席が静まり返り、多くの人が絶句した。スタート後すぐにルール違反を示す黄色の旗が上がり、高田に失格が告げられた。号砲の合図から選手がプレートを離れるまでの時間は「マイナス」と表示され、フライングと判定。記録を残すことができなかった。

スタート直後、黄色い旗が上がりレースが中断した。写真・秋冨哲生
突然のフライング判定に静まり返る観客席。写真・秋冨哲生

レース後、ミックスゾーンに来てくれた高田の言葉を伝える。

―今の心境を教えてください

「本当に残念でな気持ちです。応援してくださった皆さん、今日のために来てくださった皆さん、今まで色々助けてくださった皆さんに申し訳ない気持ちでいっぱいです。息子は今高校生でデフリンピックを見に来ています。4歳の時にも見に来てくれましたが、去年覚えているかと聞いたら、覚えていないと言うんですね。いま高校2年生。私が走るその姿を見ていれば、きっと脳裏に焼きつくはずなんです。そのためにも、今日は頑張りたかったんですが残念です」

自身のレースを振り返り涙を拭う高田。レースを終えて1時間半後、ミックスゾーンで気持ちを語った。写真・秋冨哲生

―スタートの状況を教えてください

「自分は緑色のスタートランプを見たんですが、フライングだとは気づきませんでした。そのままスタートしてしまったんです。でも、その時にリアクションがマイナスという風になっていて。マイナスといえばつまり、フライングということですよね」

―ご自身の目では、スタートランプは緑色に見えていたということですか

「そうです。もしかしたらスタートした直前に緑になったのか、ちょっと集中していて、気が付きませんでした。その辺は定かではありません。今まで400mだったんですが、110mといえば非常に短い距離ですよね。距離が短いので、スタートはとても重要になってきます。気持ちがちょっと入りすぎてしまったのか。まあ本当にそんなところです」

今大会で導入されているスタートランプ。陸上競技専門メーカーのニシ・スポーツ社製。写真・秋冨哲生

―スタンドにご家族お二人がいました

「はい。競技の1時間前にスタートの練習ができるので、その時に家族がいることは気づいていました。今まではデフリンピックにたくさんの人たちが応援に来ることはなかなかありませんでしたが、今回は家族や友人、同級生たちがたくさん来てくれて、本当にありがたい気持ちで。ちょっと緊張しながらも、頑張ろうという気持ちでスタートに向かいました」

―高田さんが走る姿を見て、デフアスリートがもっといい環境の中で競技できるようにという思いもあったか

「そうですね。2010年の時には日本でプロスポーツ選手は私だけでした。次の世代に続く人がいないということもあったので、責任を感じながらもやってきました。今、プロだったり、アスリートとして競技に参加している人たちが増えているので、とても嬉しいです。聞こえない・聞こえにくい人たちにとっても、仕事をしながら参加できたり、プロとして活躍できたりする環境ができたのはとてもありがたいです」

―今後の選手活動を含めてデフスポーツをどうやって広めていきたいか

「気持ちの整理がまだついていません。2014年にはプロとして初めてデフリンピックに参加しましたが、その時も最後のデフリンピックという思いで参加しました。トルコの時もこれが最後、ブラジルでもこれが最後と。もちろん今回も最後という気持ちで。4年後のことは今は全く考えることができません。正直なところ、1年1年、一生懸命頑張っていけば続けられるのかな、どうかなと。やっぱり体力的にも、足腰も疲れが出てきていますので、4年後のことははっきり申し上げられません。ただ、ろう陸上の人たちの応援は続けていきたいと思います。東京デフリンピックに陸上部の生徒たちが日本代表として選ばれました。4人が同じ日本代表として参加していますので、本当にそれに関してはとても嬉しく、誇りに思っています。今後は次の世代につなげていけるような、若い人たちを育てていけるような、また私自身も体が元気な間は、1年1年積み重ねて挑戦していきたいという気持ちではいます」

―ご家族お二人に今もし伝えられるとしたら

「私はデフリンピック、妻はパラリンピックの選手です。お互いに自分の夢に挑戦しつつ頑張ってきました。家にいる時間がほとんどなかったので、息子には一番そういう意味で我慢をさせたかなと思っています。私たち夫婦も夢に向かって頑張っているために、家族よりもどうしても競技に没頭していたことが正直なところあります。それでも息子は理解して応援してくれていました。ありがとうと言いたいです」

子どもたちとの交流事業にも積極的だった高田夫妻。2016年1月、パラリンピアンの高田千明と横浜市立盲特別支援学校にて。写真・松田一志

―後輩たちにはどういうメッセージを送ってあげたいですか

「失敗しても構わない。興味のあることを頑張ってほしいということを伝えたいです。挑戦すること、またそれを続けてほしいと、私も言われてきましたので、その気持ちをしっかりと持って生活してほしいなと思います。失敗したからといって死ぬことはありません。挑戦して失敗することもあると思いますが、失敗してまた新しい道があるかもしれない。新しい道を探すこともできます。ですから、とにかく挑戦を大切にしてほしいなと思います」

「そして、自分の力をもっと信じてほしい。聞こえない・聞こえにくい子どもたちの中には、自分に自信がない子どももたくさんいます。でも、本当は力があるんだよ、という気持ちを育てていきたいなと思います。そういうことが今後サポートできればいいなと思っています」

デフリンピックの会場にはさまざまなドラマがある。メダルを獲得しても、そうでなくても、観客の胸を打つ瞬間がある。参加したすべてのアスリートに敬意を表したい。

(写真取材・秋冨哲生、校正・佐々木延江)

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