
パラ水泳ワールドシリーズ富士・静岡2026(以下、富士・静岡)のプールサイドには、パレスチナ、レバノン、ネパールの選手たちの姿があった。紛争や経済的困難など、国情によりパラスポーツの環境が十分に整っていない国々にも、国際舞台に立ちたいと願う障害のあるアスリートたちがいる。
その挑戦を支えているのが、日本体育大学が実施する「SFT-NSSU HOPEプロジェクト」だ。
東京2020から続く国際協力
HOPEプロジェクトを担う日本体育大学のチームには、東京2020パラリンピックに向けて実施された「戦略的二国間スポーツ国際貢献事業(パラリンピック参加国・地域拡大事業)」の経験がある。当時、日本は開発途上国を中心とするNPC(国内パラリンピック委員会)への支援を行い、パラリンピック参加機会の拡大を目指していた。

伊藤氏は当時をこう振り返る。「2017年から東京大会まで43カ国のNPCを支援し続けました。その結果、コロナ禍での開催であったものの、東京大会では支援した国々のうち6カ国が初めてパラリンピックに参加することができました」
東京大会終了後、事業そのものは幕を閉じた。しかし、そこで築かれたネットワークと経験は生き続けた。日本体育大学がその経験を活かして取り組んでいるのが、紛争や災害の影響を受けるアスリートを支援する現在のHOPEプロジェクトである。
今回のパラ水泳ワールドシリーズ富士・静岡2026では、レバノン、パレスチナ、ネパールの選手たちが来日し、日本でのトレーニングと国際大会出場の機会を得た。
パレスチナ初の女性パラ水泳国際選手
今大会で大きな一歩を刻んだのが、パレスチナのAbu Ghosh Hanin選手(S6クラス)だ。

競技歴わずか10か月。女子50m自由形に出場し、1分26秒35を記録した。今年10月に開催を控える愛知・名古屋2026アジアパラ競技大会(以下、名古屋大会)の同種目MQS(参加標準記録)は1分36秒14であり、Haninはこれを約10秒上回るタイムで突破した。
しかもHaninは、パレスチナ初の女性パラ水泳国際大会出場選手でもある。
レース後、笑顔でこう語った。「とても嬉しいです。本当に誇りに思っています。まだ10か月しか練習していませんが、HOPEプロジェクトに参加してから一生懸命取り組んできました。名古屋でパレスチナの旗を見ることを楽しみにしています」
Haninが水泳を始めたきっかけは、パレスチナパラリンピック委員会がHOPEプロジェクトを通じてパラ水泳発展を進める中、Muallem Amandaコーチがインスタグラムで彼女を発見し、競技への参加を呼びかけたことだった。
25メートルプールから世界へ
Haninの挑戦は、決して恵まれた環境の中で行われているわけではない。パレスチナには50メートルプールがなく、練習は25メートルプールのみで行われている。
「もちろん難しいこともあります。でも、チーム全員で『できない理由』ではなく、『今ある環境で何ができるか』を考えてきました」
彼女を支えるAmandaコーチもまた、日本とのつながりからパラ水泳の世界へ入った一人だ。もともとは健常者向けの水泳指導者だったが、「パラ水泳選手を発掘する」というミッションを受け、インスタグラムを通じてHaninを見出した。
「私は彼女に『あなたはチャンピオンになれる』と伝えました。それが始まりでした」とAmandaコーチは言う。
刑事法を学ぶ大学院生
Haninは異色の経歴を持つ。刑事法を専攻する大学院生であり、水泳を始める前のスポーツといえば10年間ジムで毎日のトレーニングに励むくらいだった。「今は人生の中心が水泳競技になっています」と語る彼女の言葉には、静かな確信がある。
Amandaコーチは「Haninの挑戦には競技成績以上の意味がある」と語る。「年齢は関係ありません。どんな困難があっても、目標を持ち、あきらめなければ前に進むことができます。私たちでパレスチナの人々を勇気づけたい。誰かの希望になりたいのです」
富士・静岡で国際舞台に挑んだ4選手
今大会では、HOPEプロジェクトを通じて来日した計4人の選手が国際国際クラス分けを受け、アジアパラ出場へのラストチャンスに挑んだ。そして、うち3人がMQSを突破することができた。

ネパールからは、Kadayat Jenisha(S6)とSyangba Member Singi(S10)が出場。ネパールパラ水泳協会は2025年大会にも選手を派遣しており、日本との交流を継続している。昨年はHarkaman Ghartiが初めて国際大会に出場し自己ベストを更新。今年は新たな顔ぶれ、26歳のSyangba Member Singiが加わった。

レバノンのYassin Abdallah(S6/SB4)は、車いすバスケットボールから競泳に転向した選手だ。戦争により自宅を失い、避難生活を経験しながらも競技を続けている。今大会では男子50m自由形で45秒01(55ポイント)を記録するなど、着実な成長を見せた。
HOPEプロジェクト参加選手の競技結果
ネパール
女子50m自由形 S6 Kadayat Jenisha 1分29秒32 (MQS突破)
女子100m自由形 S6 Kadayat Jenisha 3分06秒94
男子50m自由形 S10 Syangba Member Singi 46秒00
男子100m自由形 S10 Syangba Member Singi 1分56秒46
パレスチナ
女子50m自由形 S6 Abu Ghosh Hanin 1分26秒35(MQS突破)
女子100m背泳ぎ S6 Abu Ghosh Hanin DNS
レバノン
男子50m自由形 S6 Yassin Abdallah 45秒01(55ポイント)
男子100m自由形 S6 Yassin Abdallah 1分39秒55(52ポイント) (MQS突破)
男子100m平泳ぎ SB4 Yassin Abdallah 3分16秒64
「支援」ではなく、ともに学ぶ

HOPEプロジェクトの大きな特徴は、一方的な国際支援ではない点にある。日本体育大学の学生たちもプロジェクトに参加し、選手たちの背景や社会状況を学びながら交流を深めている。
「日本が支援しているように見えますが、私たちも多くを学んでいます」と伊藤氏は言う。スポーツコーチングを専門とする伊藤氏は、日本スポーツ協会や日本パラリンピック委員会(JPC)のコーチ育成制度にも携わり、「アスリートセンタード・コーチング」の普及を推進している。
「障害があるかないかではなく、まず目の前の人を見ることが大切です。良いコーチングの本質は、障害の有無や国籍によって変わるものではありません。求められるニーズは同じなのです」
名古屋へ、そしてその先へ
私たちは国際大会で、どうしても自国選手の記録やメダルに目を向けがちになる。しかしプールサイドには、それぞれ異なる社会や歴史を背負いながら水に入る選手たちがいる。
Haninが語った「名古屋でパレスチナの旗を見たい」という言葉は、競技成績を超えた、より深い願いだ。
レバノン、ネパール、パレスチナ。それぞれ異なる困難を抱えながらも、アジアパラを目指し、その経験を自らの力と祖国のスポーツ発展へとつなげようとしている。
HOPEプロジェクトは単なる競技支援ではない。スポーツを通じて人と人、国と国をつなぎ、困難な状況の中でも挑戦を続けるアスリートたちの可能性を支える取り組みだ。
愛知・名古屋2026アジアパラ競技大会のプールで、彼らが背負う国旗とともに、このプロジェクトが育んできた希望の物語もまた世界へ発信されることになるだろう。







